| 桐野隊南関へ肉薄! 田原坂に防衛戦構築 |
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| 南関へ進軍・・・・ |
| 薩軍は高瀬で敗れたものの、その兵力に変化は少なかった。 特に山鹿(やまが)では桐野利秋が率いる薩軍4番大隊(13小隊で構成)は、薩軍に協力する党薩隊・熊本協同隊(熊本民権党)と、飫肥隊(宮崎・旧飫肥藩士族)の2隊も加え、政府軍の拠点・南関攻撃を決めた。 ここを薩軍が陥落させる事が出来れば、高瀬の政府軍を孤立させ、以後の戦局も大きく影響することになる。 3月3日。 早朝、桐野率いる山鹿の薩軍は二隊を分かれ、1隊(本隊)を豊前街道(6小隊と協同隊)、もう一隊(別働隊)は間道(4小隊と飫肥隊)から進軍した。 午前8時頃、豊前街道を進む本隊は、車坂で官軍と接触。1時間余りの激しい戦いで官軍は退いた(*1)。 |
| 政府軍は後退しながら立て直し、長野原・梅迫口・切腹坂に陣地を作り、激しく抵抗。薩軍も攻めあぐねた。 本隊の支援隊として後から戦場に着いた4番大隊第2小隊隊長・野村忍助は、政府軍の弱点を右翼とみて攻撃。政府軍は混乱し、切腹原で指揮する政府主力軍・第3旅団・福原大佐が負傷(のちに死亡)。支えきれず下岩まで後退した。 別働隊は順調に政府軍を駆逐して進軍。夕方頃には板楠・十丁まで達していた。 3月3日の戦いで、熊本協同隊・隊長・平川惟一、4番大隊第2小隊・隊長・山口孝右衛門が戦死。特に平川惟一はそれまでの身分・家柄ではなく、協同隊士での選挙で選ばれるという、当時としては斬新な方式で選ばれた人物であった。(*2) 3月4日。 早朝、 山鹿の手前10q手前に迫った薩軍は、突入準備を整えようとしたところへ斥候(偵察)から、「田原(稲佐)で敗れる・・・・」と長野原の薩軍4番大隊(桐野隊)本営へ報が伝わる。 この日、田原坂では戦いがが始まっていた(詳細は次回)。 田原が破られると、熊本へはわずかな距離しかない。また田原坂から山鹿方面へ展開されると南関の政府軍と挟撃をうけることになる。桐野はやむなく軍を山鹿郊外の鍋田まで後退させて政府軍に備えた。 ・・・・・ところが「田原(稲佐)敗れる・・・・」の報は誤報であった! 田原坂の戦いでは、薩軍が各所で政府軍を撃退してたのだ。 もしこの誤報がなければ、桐野隊は高瀬の挽回とばかりに南関へ攻め込み、占領も可能ではなかったろうか? こうなれば以降の戦局に多大な影響を及ぼしたに違いない。 ここまでの薩軍の戦いには戦果を無視した攻撃、誤報に振り回されたりが目立つ。西南戦争を伝えた文献にはそのあたりの真相はあまり触れていない。また後世の考察本や評伝では、その要因を薩軍の無策さと未熟な体制を上げるだけの面も多い。 しかしそれではあまりにも乱暴だ。仮にも薩軍首脳は元政府軍幹部将校がそろい、戦略・戦術を藩政時代から近代戦を学び、維新の戦いを勝ち抜いた強者ばかりである。 「薩軍は西郷使節の護衛軍」を掲げているだけに。何か戦争拡大を阻むものがあるはずだ・・・・!」と思えてしまう。 誤報だけで撤退したとは考えにくいと思うのは、考えすぎだろうか? (*1)26日早朝、政府軍は南関から山鹿の鍋田車坂まで進出し、さらに進軍を開始。しかし薩軍の反撃 にあい後退している。 (*2)協同隊についての詳細は後項。 |
| 長大な防衛戦 |
| 高瀬会戦直前から、政府軍首脳は続々と博多へ上陸している。 2月25日は陸軍・参軍(総司令官)・山形有朋中将が第3旅団・約5000(旅団長・三浦梧楼少将)と共に博多へ上陸。この旅団すぐ南関へ。3月3日には前衛隊が山鹿の桐野隊と戦っている。(*1) 26日は征討軍(政府軍)総督・有栖川宮熾仁(ありすがわのみやたるひと)親王が到着。海軍・参軍・川村純義中将も到着。 3月1日には大山巌少将(西郷隆盛の従兄弟)が上陸。 |
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| 田原坂の戦い直前の薩軍と政府軍の戦力配置概図 ※党薩諸隊の兵員は省略。他項で説明 |
| 政府軍は高瀬会戦の後、急な進軍はせず、首脳到着を待ちながら、高瀬・南関で熊本城救援の攻撃体制(薩軍突破)を整えつつあった。 薩軍も政府軍が動きを止めているわずかな間に、熊本北部に拡がる丘陵地帯を次なる主戦場とみなし、山鹿から有明海まで全長二十数キロあまりに防衛戦を築き上げていた。 防衛の分担は、山鹿〜田原坂一帯を桐野利秋、田原・吉次峠を篠原国幹、木留の薩軍防衛線本営には村田新八・別府晋介が控え、吉次峠以西の防衛と篠原隊の援護を分担した。 防衛線には北の山鹿から、鍋田・米野・岩原・広・清水・霧野越・平原・国見山・木葉山・砥石山、味見山・金比羅山・田原・七本・轟・横平山・耳取山・吉次峠・三ノ岳・二ノ岳・大多尾・野出・・・に監視隊を常駐させて胸壁・保累など陣地を構築。薩軍約7000人と党薩士族諸隊:熊本隊・佐土原隊・高鍋隊・飫肥隊などを合わせ総兵力約10,000人、39小隊(別働2隊)の編成で臨んだ。(*2) 桐野隊の山鹿攻めは頓挫したが(*3)、田原坂の戦いが始まる当日まで政府軍の注意を引いて陽動の役目を果たし、他の薩軍各隊は政府軍の妨害をあまり受けず、戦線構築をおこなっている。 |
| 田原坂・吉次峠付近の薩軍防衛拠点配置概図 |
| 薩軍は政府軍が攻撃を集中させると予測したのが、田原周辺であった。 田原から七本へ続く標高約100mの小高い丘は薩軍防衛線の中で最もなだらかで、政府軍が進軍するには最も容易な地形である。薩軍はここに約17小隊と最も多い部隊を配置。“五十歩ごとに一保塁、百歩ごとに一胸壁・・・・”と言われるほど、厚い戦線を短期間に構築している。 判断は的中し、政府軍もここの突破を第一に各隊の編成を進めていた。(*4) なぜ政府軍の狙いと薩軍の予測は一致したのか? それは最もなだらかな地形だけではなく熊本北部の交通事情もからんでいた。 熊本北部の丘陵地帯で熊本へ通じる最短の道は他にもあるのだが、いずれの道も大軍と大砲を牽引してを通れるだけの道幅があったのは、木葉〜田原〜植木を通る道・田原坂しかなかったからである。 さらに江戸時代初期・肥後の大名・加藤清正が、この丘陵に街道を造る際、わざと凹状に削って作り、両側から迎撃しやすい道にしていた“からくり“もあった。 万全の体制と物量で迫る政府軍、重厚な防衛線で待ちかまえる薩軍。西南戦争・最大の激戦となる“田原坂・吉次峠の戦い”は間近に迫っていた・・・・。 (*1)第3旅団の博多上陸で開戦前に編成した全旅団は九州上陸したことになる。なお政府軍はこの後 も増援を九州へ派兵する。 (*2)薩軍の兵員・編成は諸説ある。 (*3)桐野隊の山鹿方面での戦いは、山鹿を撤退する3/21まで続いている。 (*4)もっとも攻められる確立が高い田原・吉次峠の篠原隊の兵員が1000人と少なく、山鹿の桐野 隊は3000と多い。しかし山鹿〜田原の広範囲を受け持っているため密度は低いのが実情。篠 原隊は防衛範囲は限定されたもので密度は高い。また木留の本営(防衛戦の本営)からの増援も可 能な位置でもある。戦力を自軍の予測だけで配置 できないのが、守り手側の辛いところである。敵は裏をかいて来る恐れは充分あるからだ。 |
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| JR熊本駅北の春日町。鹿児島線近くにある北岡神社境内に、薩軍は本営を置いたことがある。 鹿児島から進軍してきた薩軍は、川尻を本営として熊本城を包囲。のちに北岡神社・神官:光永大膳の屋敷へ本営を移した。 しかし熊本城からの砲撃が激しくなり、二本木へ本営を移した。二本木への移動は3月11日以降とされている。 この移動の記録は文献によって異なる。薩軍側から西南戦争を描いた「薩南血涙史」では、2月26日に本庄より本営を春日神社(現在の北岡神社)境内に移し、3月1日、西郷隆盛は本営を出て、翌2日本二本樹(二本木)の本営に還るとされている。 薩軍本営は、政府軍・衝背軍が迫る4月13日夜まで、熊本にあった。 |
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| 北岡神社の位置 | |
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| 西南戦争ツーリングレポート 3 |
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| (2のつづき)4/16(晴れのち曇) 朝6:00。フェリーは大分へ着く。何となく肌寒い中でようやく別府市内でファミレスを見つけ朝食。また小一時間くっちゃべる。これからの旅の事、西南戦争のこと、辞める会社のこと・・・・ satouno達のツーリングは、とにかくしゃべりるばかりであまり走らないのだ!?。こういうのをを端から見たら何と思うだろうかね? 湯布院・狭霧台まで来て「星座」の“やっさん”のところへTEL。だいたいの到着時間を告げる。でも由布岳を眺めては(去年は雨で見れなかった)なごんでしゃべりだす。 気がついたら「もう9時まわってるぞ・・・!?」10時までには「星座」に着くつもりだったので、あわててバイクで走り出す。早くも予定は崩れてく。(4へつづく) |
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