| 北肥後の要衝で 両軍主力激突・・・・ |
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| 両軍主力、初の激突 |
| 植木・木葉で連敗の政府軍・熊本鎮台第14連帯(乃木隊)は敗走。23日夜木葉の西にある寺田山に集結した。 25日早朝から乃木隊は空白地帯となっている高瀬(玉名市)の確保と南下する政府・主力軍(第1・第2旅団)との合流をめざし、菊池川を渡って高瀬で防衛線を張った。 高瀬は菊池川西岸の街で、菊池川を渡る高瀬大橋があり、南関(玉名郡南関町)から南下する政府・主力軍にとって、高瀬経由で熊本へ進むルートは、山鹿経由に比べ起伏が緩やかで物資を運ぶには容易であり、高瀬大橋を確保する事は必要不可欠。この地を巡って両軍主力は初めて激突することになる。 |
| 現在の高瀬大橋からみた菊池川 写真億が山鹿方面 |
| 第一次高瀬会戦(3/25) 薩軍主力先鋒は熊本北部へ移動を開始。24日、4番大隊3番小隊長・野村忍助は5個小隊を率いて山鹿制圧に進軍。6番大隊長・越山休蔵は3個小隊を率いて植木経由で高瀬東の山部田へ進軍して植木への進路を封鎖。さらに3番大隊7番小隊長・岩切喜次郎は有明海沿いから小天経由で伊倉へ3個小隊を率いて高瀬へ、熊本隊3小隊も吉次峠を越え伊倉へ進み、高瀬へ進軍した。 政府軍第1・第2旅団は25日に南関に達し本営を正勝寺に置いた。さらに第1旅団長(司令長官)・野津鎮雄少将は、乃木隊への応援として彦坂大尉の1個中隊全員を人力車で高瀬へ急行させ、続いて長谷川好道中佐の4個中隊を派遣した。 人力車輸送とはユニークな方法だが、鉄道が整備されていない当時としては、時間ロスと兵の疲労軽減を狙った最善策だろう。 |
| 午後4時、伊倉にいた薩軍・岩切喜次郎隊が高瀬大橋を渡りはじめ乃木隊と戦いが始まった。 岩切隊は、迫間の乃木隊を圧倒して展開。熊本隊も伊倉から進んで菊池川を渡り、繁根木の乃木隊を攻めた。 乃木隊は後退したが、長谷川中佐の4個中隊が駆けつけて対抗。 増援の出現に熊本隊は迂回してこれを攻めようとしたが、察知され撃退されている。 戦闘は日没となって二時間あまりで終了。薩軍はは熊本隊は寺田山、岩切隊は伊倉へ撤退した。 |
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| 3/25 第1次高瀬会戦 |
| 第二次高瀬会戦(3/26) 26日早朝から、政府軍・第2旅団は旅団本営を南関から高瀬の北・石貫まで移動し乃木隊を統合。さらに薩軍の展開が手薄とみて攻撃を決定。約1600の兵で菊池川を渡河。 薩軍は川部田の越山隊、寺田山の熊本隊、伊倉の岩切隊が迎え撃った。 迫間から菊池川を渡った乃木隊約500名、薩軍・越山休蔵隊へ攻め込んだ。越山隊は乃木隊のほか知識中隊の攻撃も受けて防ぎきれず、昼頃には木葉へ敗走。さらに第2旅団本隊から約1000の兵が菊池川を渡河。二手に別れ薩軍・熊本隊・岩切隊各隊を攻撃した。 |
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| 3/26 第2次高瀬会戦 |
| 初め両軍は拮抗した戦いを繰り返したが、越山隊を駆逐した知識中隊が、熊本隊側面を攻撃しはじめた頃から薩軍・岩切隊・熊本隊は戦線を維持できず、植木・伊倉方面へ撤退。 乃木隊は越山隊を追って木葉を抜けて、田原坂まで攻めた。 乃木は“田原坂は戦略上重要”と確保のため増援を第2旅団本営へ要請したが、司令・三好重臣少将は撤退命令を発し、乃木隊はやむなく撤退。他の部隊とさらなる敵の来襲に備えて高瀬の守りを固めた。 三好少将は薩軍主力が後方に控える中で、高瀬〜田原坂までの広い地域に兵を分散させるにはまだ体勢不足と判断したものであろう。 この判断が、のちに田原坂で壮絶な激戦を呼ぶことになろうとは、誰もこの時は想像もつかなかった・・・・。 |
| 第三次高瀬会戦(3/27) 26日夕方、薩軍幹部が率いる隊が熊本を進軍した。篠原国幹、桐野利秋、村田新八の率いる3大隊の中でも選りすぐった精鋭・総勢約2800。 各隊長は高瀬の政府軍を三面から攻撃することを打ち合わせ、桐野隊は山鹿経由で高瀬北側より攻め、篠原が植木経由で高瀬の西から、吉次峠から伊倉へ抜ける村田隊は高瀬の南より攻める手はずで進んだ。 高瀬の政府軍・第2旅団はこの時点で南関から後続の部隊も到着し、近衛第1連隊や第8連隊を中核として総勢約4000。船島(高瀬の北)に旅団本営を進め薩軍の攻撃に備えていた。 3月27日早朝、篠原隊は菊池川東岸・川部田に到着。政府軍は菊池川を渡っていた政府軍前衛隊が攻め込み対岸から猛烈な砲撃をあびせた。篠原隊も政府軍に砲撃で対抗。菊池川沿いで渡河強襲するそぶりを見せながら、政府軍を引きつけた。 この戦いに政府軍が集中しているとき、午前10時ごろ桐野が率いる3個小隊が高瀬の北・江田村から菊池川を一気に渡り、乃木隊などを圧倒して元玉名へに進んだ。 この攻撃と並んで伊倉から進んだ村田隊も高瀬の南から菊池川を渡っって進軍。繁根木の政府軍第8連隊を攻め、篠原隊の別動部隊が大浜津から川を渡り村田隊と合流して岩崎原から猛攻。 支えきれない8連隊は、繁根木あたりの集落に火を放って薩軍の進撃を阻みながら葛原山へ後退。薩軍の見事な連携攻撃に政府軍は動揺し、戦線が乱れはじめた。 近代戦は兵員と兵器、物資の動員力で勝敗を決めることが多い。この点では政府軍有利は揺るがない。しかし連携の取れた薩軍の三面攻撃は、政府軍を圧倒した。 |
| 政府軍第2旅団・野津道貫大佐(第1旅団長・野津少将の弟)は、桐野隊を阻むため、本営北にある稲荷山占領に大迫大尉の中隊を派遣。 稲荷山は南関と高瀬を結ぶ街道の東にある丘のような山で、政府軍にとって南関との補給路確保、菊池川流域で戦う自軍の背後の安全には、欠かせない場所。当然攻める薩軍にとっても重要な地点である。 桐野隊は元玉名・迫間への攻撃に兵をとられ、なんとか1個小隊を向かわせたが、先に政府軍に占領され、桐野隊は二方向からの攻撃を受けることになった。 薩軍と政府第2旅団が高瀬の南北で激戦を繰り返している午後2時ごろ、篠原隊が突如撤退を開始した。その理由は弾薬が尽きた為と云われている。菊池川を思うように渡れず、銃砲撃戦しかできない篠原隊としては仕方ないとも言えるが、作戦上の撤退ではなかったようで、これが戦局に影響しない訳がない。(*1) 篠原隊攻撃に当たっていた政府軍各隊は桐野・村田隊への攻撃に加わり、薩軍優勢の戦況は一気に政府軍優勢に傾いた。政府軍に対抗できなくなった村田隊は、午後4時ごろ菊池川を渡り伊倉へ退却を開始。 |
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| 3/27 第3次高瀬会戦 | |
| 繁根木(はねぎ)神社 弾痕の跡が石垣に残るという |
最後に残った桐野隊も第2旅団と、南関から進軍してきた第1旅団の攻撃も受けて壊滅の危機が迫ったが、何とか菊池川を渡り山鹿へ撤退。こうして3度に渡る高瀬の会戦はいずれも迎え撃った政府軍の勝利に終わった。 |
(*1):一説では篠原隊は夕方まで高瀬にどまり、一部の隊は菊池川を渡河していた話も伝わっている が、その真偽は定かでない。 |
| 高瀬の会戦は田原坂の戦いが目立つ為影にに隠れがちだが、“西南戦争の関ヶ原“と評する見方がある。 これは薩軍主力精鋭が政府軍・主力に対して攻勢に出た最初の会戦。そして政府軍が薩軍をはじめて撃退した戦いであるからだ。 薩軍の敗因は篠原隊の撤退も大きいが(撤退命令の誤報? 薩摩士族のおおらかさ? 敵を後退で誘い出し叩く意図があった?)、桐野隊が稲荷山占領が出来なかった事もあげられるだろう。 西南戦争の戦いを論じた文献では“桐野が地形不案内のため、稲荷山を軽視した”とする推理があるそうだが、桐野は稲荷山へ部隊を送っており、軽視していたと観るのは違うと思う。 問題は稲荷山攻略隊の到着が政府軍より遅れた事と、その兵力にある。桐野は高瀬に3個小隊(兵約600)しか率いて来ていない。山鹿に10個小隊ほどもありながらである。 兵の数が多ければ、たとえ先を越されても力押し奪取も可能であったろうし、その後の戦局は大きく変わっただろう。山鹿の戦力をさけない様々な事情はあるだろうが、維新の戦いでは勇猛でならし、野戦は得意なはずの桐野・篠原らが並んでこの不明な動きは、どこからくるのか? |
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| 繁根木川堤防・高瀬会戦の激戦地。 | |
| 高瀬官軍(政府軍)墓地 破損・亡失が多くなり、 公園整備され合祀塔が作られている |
| ・・・・この辺の謎が薩軍を低く評価する一因になる。しかし事実が100%解明されていないなかで、結果だけで単純に結論づけられる事でもないだろう。 どちらにせよ、薩軍はこの会戦を撤退で終わることになった。 27日の戦いで村田隊と共に行動していた篠原隊(1番大隊)1番小隊隊長・西郷小兵衛(西郷隆盛の末弟)が、繁根木川の堤防で戦死している。 |
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玉名市の中心街・高瀬。菊池川下流の交通の要衝である。西南戦争では薩軍・政府軍両軍主力が最初に激突した。27日の戦いが最大の激戦となり、薩軍は政府軍を三面から激しく攻めたが、一歩及ばず政府軍が撃退した。 この戦いで両軍合わせて約7000人の兵が動員され、高瀬の街も約3分の1の家屋が戦火で焼かれたと云われている。 菊池川支流・繁根木(はねぎ)川が菊池川に合流する近くの堤防。ここの戦いで西郷隆盛の末弟・西郷小兵衛は敵の弾を胸に受け戦死した。 |
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| 西郷小兵衛戦死之地碑 | ||
| 小兵衛は薩軍総大将の弟でありながら小隊長として最前線で軍を指揮。ここでも旗を振り指揮したという。 小兵衛は寡黙で思慮深く兄の隆盛を慕い、隆盛も歳の離れた弟を愛し、いつも自分の近に置いていたという。享年31歳。訃報を聞いた隆盛は暫く呆然として悲嘆にくれたという。一説によると隆盛自ら遺体を引き取りに赴いたともいわれている。 西郷小兵衛戦死の地は今はのどかな川の畔で、そこに碑が立っている。訪れたときは花が添えられ、草刈りがされていた。 |
高瀬の位置 | |
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西南戦争ツーリングレポ ート 2 |
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(1のつづき) この日乗ったバイク客は平日のため少なく、我々の他に3人ほどだけだった。転勤でバイクを九州へ持っていくという一人とは話はできたが、あとは、会釈して挨拶しても無視。そのわりに通路をオフブーツで歩いていると、気にしてこちらをよく見るんだよねぁ。素直に話しかければいいのに・・・。 最近旅先でのライダーの交流が少なくなった様な気がする。みんなそれぞれ仲間内だけで集まる事が多いし、走っていてもピースサインがあんまし返ってこないし・・・黙々と前を見て走ってるライダーが多いもんね。景色のいいところでも止まらずひたすら走り抜けてゆく。・・・・何となく寂しく感じるのは古いライダー世代の感覚なのか? 寡黙に自分の世界で走るのが流行なのか? フェリーの乗客は出航直後にレストランや風呂へ行きがちで、部屋のお客もみんな行って返ってこない。混むのは苦手なので少し遅らして風呂・夕食へ。風呂は時間差でがら空き。空いているせいかお湯が熱いのはまいった。(^o^) カフェテリア・レストランは閉店間際で空いていた。陸の上に比べれば割高だが、暖かくゆったりとしたスペースで食するのは良いことだとおもう。船室でインスタント食品やコンビニ弁当を食うのも経済的だが、satounoはこちらがいい。夕食の友はたかま酒店で頂戴した壱岐焼酎。うひたつ氏と飲む。良い香り。すっとした感じの喉ごしで生とロックで飲む。最近は清涼感が焼酎の流行。でもどっしりした味わいも好きだ。 ・・・・雑魚寝の2等船室では気楽に喋っていられるムードはなく(消灯時間もあるし、怖いお母さんと子供がいるので・・・・(^_^;))、空いてるスペース(本来はカラオケルーム?)でこれからの旅のこと、時代劇ドラマなどいろいろ話をしゃべって、明日のツーリングを思い深夜に眠った。(3へつづく) |
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