| 明治六年の政変は 征韓論争ではなく、権力闘争 |
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明治維新から数年後の明治6年(1873年)10月。正院参議(現在の内閣に相当)が二派に分かれる事件が起こった。これが「明治六年の政変」といわれる事件である。 この政変は長い間“いわゆる征韓論争”といわれ、武力(外征)で朝鮮との問題を解決しようとした西郷隆盛と、それに反対した大久保利通との対立とされてきた。 しかしこの政変で西郷が公の場で明確に征韓論を主張した記録は見あたらない。むしろ西郷は閣議と書面で「自らが全権大使となって朝鮮を訪問し、両国の問題を話し合いによって解決を図る・・・・」とする遣韓論を論じており、征韓論とは全く異なるものであった。 |
| 遣欧米使節団と主導権争い |
| 東京遷都・廃藩置県など大改革をはじめた政府ではあったが、徳川幕府が批准した欧米諸国との不平等条約の改正問題が持ち上がっていた。 これは日本が外国から対等扱いされないだけでなく、貿易の不利益も起こっている重大なある問題である。そこで欧米諸国との交渉と諸国視察のため使節団派遣が決められた。 しかし使節団員の選定は簡単に決まる状況ではなかった。 明治新政府とは“薩長土肥”ともいわれる倒幕雄藩と公家の代表によって作られていたが、倒幕・維新という目標で結びついただけなので、維新が成る勢力争いを始め、使節団員選定を複雑にしていた。 |
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| 岩倉遣欧使節団・左から木戸、山口、岩倉、伊藤、大久保 |
| まず、使節団正使に参議・条約改正御用掛の大隈重信(肥前)が買って出た。これは太政大臣・三条実美(公家)が支持。 しかし大蔵卿・大久保利通(薩摩)は長州派・肥前派に条約改正の主導権を渡したくないため、大隈使節団案を反対して潰し、代わって外務卿・岩倉具美(公家)を正使に、自ら副使となって「岩倉遣欧使節団」を作る案を画策した。 さらに留守の間長州派の力が延びるのを警戒し、長州派のトップ・木戸孝允(桂小五郎)を副使に誘って使節団に参加させた。そして鹿児島で県政に加わっていた西郷隆盛を参議として復帰させ、のちに云われる“留守政府”として薩摩はの勢力維持と拡大を狙った。 明治4年11月12日、右大臣となった岩倉具視を遣欧全権大使。大久保・木戸のほか工部大輔・伊藤博文(長州)、外務少輔・山口尚芳らを副使とした48名の使節団は、最初の訪問国アメリカをめざした。 アメリカでは歓迎してくれたものの、改正交渉はは進まなかった。さらに天皇の全権委任状が無く大久保と伊藤が日本へ戻るなど不手際もあって失敗。 他国でも交渉は進まず、使節団の目的は欧米諸国の視察だけなってしまい、岩倉使節団を組んだ大久保の立場は苦しくなってしまった。 しかしイギリス産業革命、フランス・パリ・コミューン政権崩壊など欧米の実状を体感したことは意義があった。さらにプロシア(後のドイツ)では宰相・ビスマルクに招かれ、“国家間の対等な関係は、同等の国力があってのもの・・・・”と教授された大久保は以後の政治姿勢に大きく影響を与えることになる。 |
| 留守政府の改革断行と朝鮮問題 |
| 日本では三条・太政大臣のもと、参議・西郷隆盛を中の“留守政府”は大改革を立て続けに断行。 岩倉たちは使節団は、出発前に留守政府参議の勢力拡大を懸念して“やもえない改革以外はしない・・・”と約定書で誓約をさせた。 新政府発足間もない不安定な情勢でそれは無茶な話であり、西郷らは勢力争いなど意に介さず近代国家の基盤となる諸制度の導入を次々おこなった。(*1) 明治政府の大改革の多くは西郷たち留守政府によって始まったものといってもよい。 そんな改革に躍進する留守政府の前に、懸案となって持ちあがったのが、朝鮮との問題。 日本と朝鮮の関係は対馬藩を窓口に、徳川将軍家と朝鮮王家(李氏)との私的なものと、対馬藩・その他民間交易で行われていた。 しかし明治維新と廃藩置県で徳川幕府と対馬藩は消滅。民間交易は継続し公使館は開設されたものの、公的交流は途絶していた。 明治政府は周辺国との関係は国体安定の責務として朝鮮政府との国交開拓につとめたが、鎖国政策を取る清国を宗主として追随し、保守封建体制をとっていた朝鮮は、同じ体制の徳川幕府を倒し、西洋化を進める明治政府を認めず、冷淡な態度を取っていた。 |
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| この状態に日本国内では、士族を中心に朝鮮の無礼を咎め、武力で開国・国交回復させようという“征韓論”が強くなり、政府も打開策を取る必要がでていた。 明治6年5月、朝鮮・釜山日本公使館から「日本を非難排斥する文面の掲示や、生活物資の搬入妨害をうけた・・・」と通報があり、外務省は正院閣議に朝鮮問題解決案を提出。 この案は、在留邦人保護のため軍事力(陸軍と軍艦を派遣)を背景にして交渉使節を派遣するもので、参議・板垣退助(土佐)らが賛成。 それに対し西郷隆盛は、「武力を背景にした使節派遣は朝鮮を刺激して逆効果になるから、まずは非武装の使節を送り冷静に交渉すべきだ・・・・」と平和交渉使節案(遣韓論)を出し、自ら大使の任を申し出た。 西郷案には板垣・江藤ら征韓論支持参議も賛同し、8月17日閣議で採択。西郷を朝鮮派遣大使に任命。 8月19日、箱根で静養中の明治天皇に上奏され裁可を得たが、天皇の意向でまもなく帰国予定の岩倉らの意見も聞いてから正式決定する事になった。 (*1):留守政府の改革は成果をあげたものの、様々な誤解・反発をうみ、農民一揆や士族の反乱が頻 発した。 |
| 陰謀と勢力争いの明治政府 |
| 留守政府の主幹である太政大臣・三条実美は(実権は西郷ら参議にあったが)、留守政府のやり方に大きな懸念を持っていた。 ・西郷らは誓約を反故にして改革を行った。 ・西郷の陸軍大将と近衛都督の兼任。後藤象二郎、江藤新平、大木喬任を参議昇格等、 権力集中と、肥前派の勢力を拡大させた。 ・司法制度が身分が下の者が上の者を訴える悪しき風潮を呼んでいる。 ・・・・と保守的な観点から警戒感を募らせ、対抗するために木戸・大久保の早期帰国・政府復帰を視察中の岩倉に再三書簡で懇願。 欧米視察中の木戸と大久保はかなりの不仲状態で岩倉も困っていたが、留守政府派の台頭を押さえる策もないため、渋々引き受けた。 木戸と大久保の二人は岩倉より先に帰国したが別々に帰国。大久保は使節団の条約改正交渉失敗の責任を感じていたことと、廃藩置県による士族や特に島津久光の激しい非難の前に政府復帰は避けていた。また木戸も同じ長州派・山県有朋らの汚職事件もみ消しの為政府復帰どころではなかった。 |
| それでも木戸は参議に復帰を承諾。大久保は再三の懇願にも応じなかった。 明治6年9月13日、1年10ヶ月ぶりに岩倉使節団が帰国。岩倉は三条ともに勢力争いに気を取られ、朝鮮問題はそのままにしてしまった。 岩倉の帰国で朝鮮使節派遣が正式決定・実行されると思っていた西郷は、一向に閣議が開かれないので三条・岩倉をかなり激しい権幕で詰問した。 西郷は日頃とても温厚な人柄であったので、二人はあまりの激怒に「西郷は本心では朝鮮と戦争もかまわないと思っている?」と誤解をしてしまう。 ここから「西郷=征韓論者」という誤解が始まったとも云われている。 さらに二人の誤解をエスカレートさせたのが長州派の工作であった。留守政府は山県有朋・井上馨らの汚職問題を参議・江藤新平(肥前)と司法省が厳しく追及し、長州派は窮地に追い込まれていた。(*1) 伊藤博文(長州)は汚職問題をかわす為、「・・・・大久保を政府に復帰させ、西郷の朝鮮使節派遣案を反対させて二人を対立させる。そこで西郷に協力して留守政府派を見方に抱き込み・・・・」として、木戸に手紙を送るなど策略を練って三条や岩倉に「・・・・西郷の本心は征韓を企んでいるかも知れない!」と匂わせ再三煽った。 三条・岩倉は過剰な危機感に苛まされ、大久保に政府復帰・参議就任受諾を再三再四泣きついた。 大久保説得は約三週間も続き、あまりの粘りに大久保も根負けして承諾する。 大久保は西郷の朝鮮使節派遣案について、交渉が失敗すれば戦争の危険性があると見て、今の日本は内政充実が優先であると思ってはいた。しかし西郷と対立はしたくないので、“三条・岩倉の意思を閣議で伝えるだけに徹する”という条件で引き受けた。 そして10月14日・15日と正院閣議が開かれる。 |
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| 出席したのは太政大臣・三条実美、右大臣・岩倉具視、参議・西郷隆盛、板垣退助、参議に昇格していた江藤新平・後藤象二郎・大木喬任・大隈重信、そして大久保利通・副島種臣も直前に参議に就任して出席。 閣議で大久保は岩倉らとの手はず通り、「征韓より今は内事が重大であるから延期せよ」などと、“西郷の使節派遣案は征韓であるから反対”と意見を述べた。 西郷は「自案は征韓などではなく、あくまで交渉で平和的解決を図る案である・・・・」と述べ「朝鮮事件ニ付西郷隆盛建白」(西郷の自筆文書では数少ない現存文献)という、自案を書面にして三条に提出した(17日には写しを各方面に配った)。 閣議は2人の激論となったが噛み合わず紛糾。他の参議達は「一度閣議で決定した議案(西郷案)は実行すべき」として西郷案を支持。三条・岩倉も大久保に反対するよう頼んでおきながら、情勢不利とみて西郷案に賛成・・・・。 結局大久保に同意する者はなく、西郷の朝鮮使節派遣案は再び可決。裏切られた大久保は激怒し10月17日、辞表を三条に提出。 大久保の怒りに驚いた岩倉は、三条に罪をなすりつけ自らも辞意を表明、自宅に籠ってしまった。小心な三条も寝込んでしまい、執務不能になってしまった。 この事態に伊藤博文(長州派)は大久保に接近し、岩倉を太政大臣にして西郷案を天皇が裁可しないように働きかけるよう誘う。しかし伊藤の策略を感じていた大久保は取り合わなかった。 大久保は独自に岩倉邸を訪ね前後策を協議。薩摩派の黒田清隆を自宅に呼んで策を授ける。大久保の策とは“天皇侍従・吉井友実に、天皇の三条邸・岩倉邸行幸を働きかけ、岩倉の太政大臣就任を天皇に命じさせる・・・・” これは伊藤の策に似たようなものであったが成功し、岩倉は太政大臣に就任。 自分を裏切った岩倉を太政大臣に担ぎ出す大久保の行動はわかりにくい。この策を「西郷の使節派遣案つぶし」と、とらえる向きもある。 しかし単に西郷案潰しだけなら、自分を裏切った岩倉を太政大臣就任を画策はしないだろう。大久保は、 ・朝鮮との交渉が成功すれば新たな派閥が生まれ、西郷が政敵になる恐れがある。 ・この騒動での政治的空白は国政に関わるため。長引かせたくない。 ・江藤・板垣など留守政府で力をのばしている勢力一掃のため、岩倉の権限を利用して 彼らが支持する西郷朝鮮使節派遣案を天皇によって否決させ、不信任に追い込む。 ・朝鮮問題は勢力争いが落ち着いてから論議すればよい・・・・ と思ったのではないか? どちらにせよ西郷ら留守政府派をのぞく政府要人・大久保も朝鮮問題よりライバルとの勢力争いに走ってしまったのだ。 (*1):倒幕期から山県の才能を高く買っていた西郷は、汚職事件追及から庇っていた。 |
| 西郷参議辞任 |
| 10月22日。西郷・江藤・副島・板垣ら留守政府の参議が岩倉邸を訪ね、正院閣議が決定した西郷の朝鮮使節派遣案を天皇に上奏するよう申し入れた。 岩倉は、閣議決定に拘束されず、自分の意見(派遣延期)も上奏し、天皇に判断を仰ぐとして譲らなかった。 江藤らは岩倉の態度に抗議したが岩倉は受け付けず、あきらめて去った。 10月23日。岩倉は西郷の「朝鮮使節派遣案」と岩倉の「使節派遣延期案」の二つを天皇に上奏。 翌日天皇の勅命が下り、西郷案無期延期が決まった。 一説によると西郷を慕う天皇は、岩倉が「西郷を朝鮮使節として派遣しても失敗し、彼の命が危険・・・・」という意見に動かされた選択だとも云われている。 |
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| このような事態に西郷は勅命を待たず参議と近衛都督の辞表を提出(*1)。つづいて板垣・江藤・後藤・副島の四参議もは辞表提出。 西郷は征韓派や西郷を慕う軍人に無謀な決起を厳に戒めなが、大久保らの説得を聞き入れず、鹿児島へ帰郷した。 このとき西郷に同調する薩摩出身の村田新八ら政府高官・官吏、桐野利秋・篠原国幹ら将校・軍人など約600名が辞職・帰郷する事態に発展。 こうして留守政府参議の大半は政府を去り、「明治六年の政変」は幕を閉じることになる。 その後大久保は地位を回復し、岩倉との連携で改革を断行。下野した板垣・江藤ちは大久保・岩倉のやり方を「有司専制政治」と批判。 |
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| 治6年10月14日〜24日のおおまかな流れ 議論の関連が薄い参議は省いています |
| 明治7年1月17日「民選議院設立建白書」(議会設立要請)を政府に提出して“自由民権運動”を展開してゆくことになる(江藤は佐賀の乱に巻き込まれて刑死)。 鹿児島へ帰郷した西郷は、再三大久保・岩倉から復帰を要請されるが固辞。鹿児島で隠棲生活を送り、私学校士族決起に担ぎ出されてゆく・・・。 これまで明治6年の政変は征韓論争一色だったが、現在では、西郷は征韓論を論じておらず、政府内派閥の勢力争いであったという事で認識が固まって来ている。 長い間「西郷=征韓論者」とされ、今でもそう扱われるのは、 ・西郷が朝鮮へ大使として渡航しても当時の朝鮮の情勢から西郷は殺されるか、交渉は は失敗し戦争に発展する確率が高いと考え方もあった。そこで西郷の本心は戦争への 口実(征韓)を作るため大使派遣を狙っていたのでは・・・・?との風説。(*1) ・西郷が軍人(陸軍大将・近衛都督)であった事。西南戦争で薩軍大将になった事から好 戦的な人物であったと推測された誤解。 ・西郷を追い落とした者達が自分たちの不実を隠すための工作。 等があげられる。 しかし、いろいろ解明されてきた現在でも、いまだ西郷を「征韓論者・保守反動・軍国主義者」としてしか観みない視点。西郷と征韓論(外征推進)・西南戦争を安易に結びつけ“大陸拡大政策の先駆者”として信奉するむきもある。 どちらの視点も、一方的価値観でしか考えないことが、残念なことである。 (*1)参議・近衛都督に辞職は受理されてが、陸軍大将の辞職は認められなかった。 (*2)西郷は、征韓論者だった板垣退助を説得するため、「もし朝鮮で使節が殺される事(交渉失敗)にな れば、征韓も矢も得ないないが、まずは交渉である。今は自分の案(遣韓論)に賛成してほしい」と いう旨の書簡を送っている。また大久保との激しい論争の中で「もし交渉決裂の場合は、戦争も矢 も得ない・・・」と激した発言などが一人歩きし、「西郷=征韓論者」と誤解される要因の一つになっ てしまったとも言われている。 |
| 錦絵にみられる明治六年の政変 明治六年の政変描いた錦絵は数多くある。しかしいずれも後に想像で描かれたものが多く、人物の風体・衣装など実際とはかなり異なって描かれている。 また脚色・誇張された描写も数多くあり、「西郷=征韓論者」の誤解を強く植え付ける要因になってしまった。 |
| ↑征韓論之図1 橋本周延 画 西郷と大久保が対決した明治6年10月14日・15日の閣議を明治10年に描いた錦絵。右から4人目・足を広げて座ったヒゲ男が西郷隆盛。左側手前で西郷の方を向いて大きな灰色のヒゲをたくわえた男が大久保利通。西郷の左で乗り出して怒鳴っているのが、この場にはいなかったはずの桐野利秋。さらに榎本武揚や前原一誠も描かれている。 |
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| ↑征韓論之図2 橋本周延 画 上と同じ作者による、明治6年10月14日・15日の閣議の様子。服装など、とかなり異なる印象を受ける。右で帽子を脱ぎ捨て立って怒っているのが西郷。左端・洋装でふんぞり返ったヒゲ男が大久保。大久保以外の反対派は和装というのが、作為的? ※絵画の内容的評価と絵画的価値は異なります |
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