| 迫る政府軍の包囲、 薩軍は苦渋の決断へ!! |
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| 美々津・延岡の攻防 |
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| 宮崎県(当時は鹿児島県)・延岡は明治10年5月、野村忍助率いる奇兵隊が豊後(大分県)展開の本営を置いた。6月以後は政府軍第1旅団・熊本鎮台等の攻勢が強まったが、無理な展開はせず、日向・豊後境の山地でゲリラ戦を展開。 薩軍本隊が人吉移動前後から三田井(現在の高千穂町)で熊本からの政府軍を牽制していた池上四郎隊も、奇兵隊と連携して延岡〜日向北部を防衛。 これらの努力が敗走する薩軍本隊の窮地を救う事になる。 8月2日 高鍋で敗れた薩軍本隊は本営を延岡に置き、山蔭や美々津(共に現在の日向市)に本隊を配置。政府軍に備えた。西郷は大貫村(現在の延岡市)・山内善吉方に宿陣。 |
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| 8月4日 高鍋から内陸を迂回していた別働第二旅団は、鬼神野・坪屋と進軍し、渡川で党薩諸隊の新募隊と交戦。薩軍は止められず山蔭・美々津防衛に努めた。 8月6日 薩軍は西郷隆盛の命で各隊長宛に教書を出し奮起を促す。 8月7日 別働第二旅団は山蔭・美々津を攻撃。薩軍は防ぎ切れず、拠点を門川(現在の門川町)へ移動。本営・火薬製作所・病院等を延岡から奇兵隊本営・熊田(現在の北川町)に移した。 8月12日 政府軍各旅団は延岡攻略を開始。西郷は船で延岡から北川を登り、熊田に宿陣。翌日13日には少し南の笹首・小野彦治宅方へ移る。 8月14日 政府軍・別動第2旅団は先陣を切って延岡に突入。薩軍は中瀬川の橋を破壊するなど抗戦したが、第3旅団、第4旅団、新撰旅団が門川から延岡へ突入。薩軍は延岡城下から撤退し夜にかけて北部の友内山〜和田越〜長尾山の稜線に各隊を配備。政府軍と雌雄を決するべく陣を張った。そして今まで一度も前戦に現れなかった西郷隆盛が和田越に赴く。 |
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| 薩軍は総勢約3000(*1)。鹿児島以来の精鋭も僅かとになり、武器弾薬も乏しく政府軍に対抗できる状態ではなかった。それでも西郷の登場で志気が上がる。 対して政府軍は総勢約35000を前戦に投入。さらに北川河口に海軍軍艦を揃え、万全の体勢と物量で薩軍を包囲。 |
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| (*1) 薩軍の兵力は他に3500説など文献により差がある。党薩諸隊は770といわれている。 |
| 和田越の戦い |
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| 8月15日 和田越の戦い戦況概図 |
| 8月15日 この日は早朝は濃霧が立ちこめていた。西郷隆盛は桐野利秋・村田新八・池上四郎・別府晋介らと共に和田越で全軍を指揮。一方の政府軍参軍・山県有朋中将(実質総大将)も和田越から約2q南の樫山の小山から指揮。 両軍の総師が初めて前戦で指揮する中、霧が晴れた午前8時ごろ戦闘は始まった。 日向灘から北川河口に進入した海軍軍艦(*1)が薩軍陣地へ艦砲射撃をかける中、政府軍各旅団は山麓から友内山、無鹿山、和田越、小梓峠、長尾山へ攻撃をかける。 薩軍も尾根から銃砲撃を麓の政府軍にあびせた。神楽田から進軍する別動第2旅団は泥濘に阻まれ、桐野利秋率いる攻撃隊に苦戦した。しかし数に優る第4旅団が退ける。 その後両軍は一進一退の攻防を続けたが、別動第2旅団は小梓峠の熊本隊へ迫る。薩軍も雷撃隊・奇兵隊が支援したが突破され、昼頃には薩軍各隊が総崩れとなり北へ退却。 和田越の西郷は政府軍が迫っても陣を引こうとはしなかったが、周囲の者に担がれて和田越の北、長井村(現在の北川町)へ退却。 薩軍は包囲され北川沿いの谷に封じ込まれる。 (*1)竜驤・日進・精輝・鳳羽・春日・孟春・浅間等が参加。山麓 からの攻撃で不利な政府軍(陸軍)旅団を援護した。 |
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| 延岡・樫山 山県有朋中将陣頭指揮の地碑 山形はここで督戦し、西郷と対陣した。 |
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| 和田越決戦之碑 |
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| 和田越を南側から望む。稜線の中央部付近が和田越 |
| 可愛岳突破! |
| 8月16日 北川沿い熊田〜俵野一帯の谷間で包囲された薩軍は、武器弾薬も尽き、多くの兵が傷つき倒れ、組織的な政府軍への対抗は困難に陥っていた。 薩軍はついに解散令を発する。 「我軍の窮迫、此に至る。今日の策は唯一死を奮つて決戦するにあるのみ。此際諸隊にして、降らんとするものは降り、死せんとするものは死し、士の卒となり、卒の士となる。唯其の欲する所に任ぜよ」 西郷直筆の書で、行動の自由を公布した。 薩軍では大半の党薩諸隊や傷病兵を始め次々政府軍へ投降。又は自決する者が相次ぐ(*1)。 西郷も従僕・熊吉に長男・菊次郎を託し、愛犬2匹も野に放ち、鹿児島から持参した書類・陸軍大将軍服を焼くなど、身辺整理をおこなった。 残った兵は鹿児島士族と中心とする約600(*2)。政府軍の包囲は次第に狭まり、西郷が宿陣する児玉熊四郎宅近くにも砲弾が落下し始める中、幹部達による軍議がおこなわれた。 潔く降伏か、決戦の末に玉砕か、再起のため突破か・・・・。桐野は熊本へ、別府は鹿児島へ。野村は豊後へ・・・・それぞれに論じたがまとまらず、一時は野村の豊後案へ傾いたが、熊田が陥落した報を受け、それも無理となった。 8月17日 軍議はこの日も続き、午後4時頃になっても結論は出ず、西郷の裁定で河野・辺見が進言する案を採用した。可愛岳(えのだけ)を越え、政府軍の包囲を突破し、三田井(現在の高千穂町)へ進み、そこで次の策を考える策である。 ささやかな酒宴の後午後10時、桐野が宿陣する岡田忠平方近くの山道から薩軍兵達は地元猟師を案内に立て、可愛岳を登り始めた(*3)。 |
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| 西郷が16日・17日に宿陣した児玉熊四郎宅 現在は西郷隆盛宿陣跡資料館 |
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| 児玉熊四郎宅の裏にある熊西郷軍服焼却の地 | |||
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| 可愛岳、俵野から眺める |
| 8月18日 可愛岳は標高728mだが、断崖が続く険しい山である。午前4時30分頃ようやく前軍が頂上近くの稜線・中の越に到達。北斜面に野営している政府軍の警備が手薄である事を知り、中軍・後軍の到着を待って突撃を敢行。 不意を衝かれた政府軍第1・第2旅団は混乱し退却。薩軍は政府軍が総攻撃の為運び込んでいた銃弾約3万発・砲一門等を奪い逃走。この日は祝子川上流の和久塚・地蔵谷で野営。 |
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| 8月19日 祝子川の第2包囲線を破り、上祝子泊(西郷は小野熊治方泊)。8月20日は大崩山と鬼の目山の間・鹿川越を通り、鹿川村〜中川村(現在の日之影町)と抜け、8月21日三田井へ向かう。 政府軍は第1旅団に追撃を命ずるとともに、別動第2旅団を椎葉〜人吉方面へ。第3旅団を佐土原から小林方面。宮崎〜都城へ第4旅団。また別動第1旅団を船で熊本、第2旅団を船で鹿児島へ派遣するなど、薩軍の動きに備え新たな展開を始めた。 |
(*1) 党薩諸隊の大半は降伏・投降したが、中津隊と高鍋隊のうち約30名は降伏せず、西郷達に随行。 8月16日竜口隊隊長・中津大四郎が解散した事への責を負って配下に投降を命じ自刃。17日夜に は飫肥隊隊長・小倉処平が自刃。和田越の戦いで負傷し、川坂・神田伊助方で治療していたが、薩 軍が可愛岳へ向かった事を知って後を追ったものの果たせず、途中の高畑山で自刃している。 (*2) 文献によっては1000人説等もある。 (*3) 行軍に当たり「談話せぬこと、煙草を喫まぬこと。敵と遭遇しても発砲せぬこと。道標として先 頭の者は木の枝に白紙を結んでいくこと」という決め事発しを守らせたという。解散令を出した 後も薩軍は軍律が徹底していた。 |
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延岡の北部、北川沿いの谷間にある北川町。明治10年8月12日、政府軍に追われた薩軍は本営を熊田(北川町)に置いた。西郷の宿陣は熊田・笹首と北川町内を転々と移し、和田越の戦いに敗れた15日、俵野・児島熊四郎宅に宿陣。薩軍解散令を出し1た17日深夜、士族達と政府軍突破を目指し去っていった。 北川町内には西郷が食事した西郷茶屋、病院跡をはじめ西南戦争関連史碑が点在。児島熊四郎宅は建物では唯一当時ももので、現在は西郷隆盛宿陣跡資料館として西郷が滞在中使用した品等が展示されている。(県指定重要文化財) 西郷隆盛宿陣跡資料館の位置 |
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最後の軍議を再現
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