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北へ日豊境へゆく薩軍
           追う政府軍
冗談広告です(´∀`)




日向で再起を目指す

 人吉陥落前の5月16日、薩軍・桐野利秋は村田新八に後を頼み宮崎に向かった。人吉以後の体制作りの為である。

 旧日向(現在の宮崎県)は、北に野村忍介率いる奇兵隊が豊後・日向境で政府軍の南下を押さえ、西は薩摩・大口で辺見十郎太率いる雷撃隊が政府軍を引きつけ。横川では振武隊、行進隊が鹿児島攻撃の為南下。そして人吉の本隊(6月1日陥落し徐々に都城へ移動)・・・・。政府軍はこれらと交戦に手一杯。このため旧日向は政府軍の力が及ばない、空白地帯となっていた。

 桐野は宮崎の鹿児島県支庁(*1)を軍務所と改め新たな拠点づくりを開始。兵員募集・物資調達・・・・。
 この時期から薩軍は不足する資金・物資調達のため日本初の軍票を発行し、占領地で使用した。後世“西郷札”と呼ばれたものである。(*1)


加久藤峠から見た加久藤(えびの市)霧島北山麓 一帯で薩軍と大口・人吉から侵攻する政府軍が対決した


 人吉陥落後、村田新八率いる薩軍本隊は人吉の南・大畑の山岳地帯で政府軍・別動第2旅団の足止めの抗戦をしたが、敗れて小林へ後退。

 6月13日、加久藤(現えびの市)へ進軍した別動第2旅団は以後飯野(現えびの市)川内川一帯で薩軍・破竹隊・佐土原隊等約1000の兵で防衛線を構築。

 大口の雷撃隊は政府軍3個旅団等に圧され、6月20日には大口陥落。29日頃には栗野へ後退。以後鹿児島攻撃を果たせなかった行進隊・振武隊と共に政府軍を牽制。徐々に霧島山系南側から都城盆地方面へ移動し、政府軍への守りを固めていった。


(*1)明治10年当時、旧日向(現在の宮崎県)は鹿児島県に編入されており、宮崎には鹿児島県支庁が置
  かれていた。


西 郷 札
 軍資金不足の薩軍は、宮崎の北・佐土原・ひょうたん島で軍票を印刷・発行。薩軍の信用の元に支配地で流通させた。
 軍票は十円・五円・一円・五十銭・二十銭・十銭の6種類。布に漆で印刷されたもので、発行総数は9万3千枚。総額14万2500円発行したが、薩軍の撤退と敗北で無価値と化した。
 戦後政府による薩軍軍票の補償はなく、大量の西郷札を抱えた商人達が没落する例もみられた。

 これ以前の4月にも承恵社・撫育社に証券を発行させ、有力商人から6万円を調達していた。
西郷札1円(左)、5円(右)




都城・野尻を巡る戦い

 薩軍本隊は村田新八の指揮の元、都城を基点として西側へ半円状に各隊を配置。奇兵隊からの応援や薩摩・日向各地から募兵・徴用した党薩諸隊を加えていた。

 すでに破竹隊は高原・小林に展開。振武隊・行進隊・雷撃隊・奇兵隊等は末吉・福山・市成・百引・大崎に向けて進撃した。
  対する政府軍は7月1日4個旅団で都城攻略、2個旅団で宮崎への要衝・小林と野尻攻略に動き出す。霧島山系北側・加久藤では人吉から進んだ別動第2旅団に大口から進軍した第2旅団が合流。

 霧島山系南側では 大口から南下してきた第3旅団・別動第3旅団が国分。敷根には鹿児島から北上してきた第4旅団。鹿児島湾を渡って大隅半島に進んでいた別動第1旅団は大崎へ。計6個旅団が都城を半円状に包囲して進軍し、薩軍と抗戦。

福山から錦江湾を望む 桜島を見ながらの戦いに
薩軍兵士も望郷の念に駆られたかも知れない
7月1日〜24日の両軍展開概図


 戦いは7月8日市成・百引、12日大崎・・・・各地で薩軍は政府軍を破り、多くの武器弾薬物資を捕獲。薩軍の勢いは政府軍を圧倒した。

 兵力・物量で圧倒的に優る政府軍は無理せず、薩軍の疲弊を待って反撃。加久藤の別動第2旅団・第2旅団は10日に飯野、11日には小林を陥落させる。
 12日、別動第1旅団は大崎を抜き串間へ展開。13日第4旅団が福山、14日高原、22日には別動第2旅団・第2旅団が野尻を占領。破竹隊等は高岡(紙屋)へ後退。
 都城盆地では薩軍が庄内・財部・末吉と戦線を構築したものの支えきれず、24日に相次ぎ陥落。

  庄内から第3旅団、財部から別動第3旅団、末吉から第4旅団が都城へ進撃。都城は陥落。 都城を放棄した薩軍は山之口で中島健彦・貴島清が率いる振武隊・行進隊・熊本隊、三股で別府九郎の奇兵隊等が各隊を収容しつつ防戦するも、25日には破られ後退。

7月27日
 別動第3旅団が飫肥(現在の日南市)を攻めて占領。飫肥隊約840人・薩軍約800人が降伏投降。(*1)

 別動第3旅団は串間を陥落させた別動第1旅団に後を任せ、宮崎へ。

7月28日
 第2旅団・別動第2旅団が高岡(紙屋:現在の宮崎市内)を占領。

7月30日
 都城・飫肥・串間を制圧した第3旅団、第4旅団、別動第3旅団は宮崎へ進軍。穆佐・宮鶴・倉岡を抜く。

7月31日
 雨で増水した大淀川を政府軍は一気に渡り宮崎市街へ突入。
 政府軍の渡河は増水で無いと見ていた薩軍は不意を突かれ、さしたる抵抗が出来ないまま、宮崎から撤退。
 高岡(紙屋)を占領していた第2旅団・別動第2旅団は31日、第2旅団が佐土原。別動第2旅団は高鍋を目指して北上。

 佐土原を守る薩軍も大きな抵抗は出来ず、高鍋へ後退した。(*2)

 西郷と薩軍本営は宮崎陥落前日の30日、密かに佐土原へ移動したが、第2旅団の接近に高鍋へ移動していた。
7月22日〜31の政府軍進軍概図

現在の宮崎・大淀川  増水の中政府軍は渡河し、宮崎市街へ突入していった


(*1)飫肥で編成した部隊の大半は飫肥陥落の際、政府軍に降伏投降したが、当初から薩軍に参加して
  いた小倉所平以下の部隊は奇兵隊に所属し、引き続き薩軍と行動を共にしている。
(*2)薩軍は兵力差があり過ぎるため対抗出来ず、市街地の戦闘で街の被害を避けるため、無理に抵抗
  せず放棄したとも言われている。




日向路を北へ

8月1日
 政府軍の宮崎・佐土原占領が完了。
 都城・宮崎では薩軍兵捕虜が大量に発生し、その扱いが問題になっていた。別動第3旅団は解団し対応する事に。

 同日、新撰旅団(*1)が海路宮崎へ到着し、薩軍追撃に加わる。宮崎の政府軍は4個旅団(*2)となり、高鍋に向けて進軍。

8月2日
 高鍋攻略にに先行していた別動第2旅団が一ツ瀬川を渡り薩軍・熊本隊を破り、主力と共に高鍋へ突入。
 薩軍はさらに北の美々津へ後退して戦線構築。
本営は延岡へ。 

 都城以後、薩軍は拠点を失い降伏や投降も相次ぎ、かつての勢いは消え組織崩壊の兆しが顕著に見えていた。

 しかし豊後・日向境の山岳地帯で抗戦し勢力を張る奇兵隊との合流で志気と勢力回復に望みを託し、美々津・細島(現在の日向市)・延岡の守りを固めた。
宮崎陥落後の政府軍追撃概図


 対する政府軍は兵力・物量に任せた力押しには出ず、4個旅団が高鍋から北上する南。別動第2旅団を山間部から迂回させる西。大分から奇兵隊を攻めて南下する第1個旅団・熊本鎮台・別動第1旅団(一部)の北、後に海軍軍艦の海上封鎖による東を含め4面で包囲し、延岡一帯へ薩軍を追いつめようと動く。

 薩軍・政府軍。両軍による最後の組織戦が近づいていた。

(*1)主に志願士族による臨時巡査を中核に編成された旅団。司令長官は陸軍少将・東伏見宮彰仁親王。
(*2)鹿児島・油津から計3個大隊が豊後へ派遣されているため、他の旅団より兵員は少ない。




 旧薩摩藩領であった小林は薩軍従軍者も多く、7月11日の小林陥落まで総勢368人が参加。死者51人・病死者3人・負傷者60人を出している。
 6月13日、人吉から移動して来た薩軍は隊を小林に進駐。愛宕山・小林小学校で武器弾薬の製造を行う。
 7月11日、政府軍が小林市街に侵攻。薩軍は岩瀬橋に火を放って進路を遮断したが、政府軍は水流迫・下ノ平・栗巣野一帯で砲を構え、薩軍の籠もる岩牟礼城へ砲撃。薩軍は支えきれず、野尻へ撤退した。

 西郷隆盛は小林に2度滞在している。最初は人吉から宮崎へ移動中の5月29日。2度目は可愛岳から最後の地・鹿児島へ移動する途中の8月28日。いずれも細野村繰通り馬場・時任為英氏宅に宿泊。2度目の際は薩軍は追われて着の身着のままの状態。小林の人々は政府軍の追求があるにも関わらずもてなす。西郷はお礼として金時計を、座布団の下に何も言わずそっと置いて去ってったと云われている。
時任為英氏宅跡にある
西郷隆盛宿陣跡之地碑

小林の位置

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