政府軍は九州出兵で手薄になる他の地域へも残りの部隊を展開し、各地の不平士族の連携蜂起にも備えている。一部の港では、外国軍艦に警備を依頼して有事に備えた。
戦場においても、多くの人員・物資・費用をかけて「軍電」と呼ばれる専用電信を設置して情報収集に力を注ぎ、薩軍の動きを把握した。
さらに軍艦・船舶を動員して兵員物資を九州へ輸送。軍艦は艦砲射撃で陸軍を援護。制海権を握り、薩軍の九州外進出を完全に阻止した。
そして力を注いだのが武器弾薬の製造・補給。各地の工廠を総稼働させ、海外からの輸入もおこなった。この結果当初は前線で劣性だった戦況も、次第に物量で薩軍を圧倒してゆく。しかしそれで楽勝とはいかなかった。
近代軍を翻弄した薩軍の行動力
維新の戦いでは近代装備で最強を誇ったが薩摩士族だった。その10年後の西南戦争は薩摩士族の想像以上に、戦いは物量・補給の優劣で勝敗が決まる時代へ変化していた。
薩軍は政府の挑発に対して尋問する「陸軍大将・西郷使節団の護衛」と位置づけた自己防衛的な集団だった。そして急遽作られた軍のため、物資・最新装備は乏しく、情報手段も乏しかった。
戦略面では「素早く熊本城を陥落すれば“狼煙”となって全国の士族も呼応蜂起。政府は九州どころではなくなるから、薩摩の意思を受け入れざるを得なくなる・・・・」として、補給など体制作りに時間を割くより、速攻熊本進軍を優先させた。
しかし熊本城は陥落せず、政府軍は博多を南下。補給など体制が不充分にも関わらず野戦になってしまう。当然物資はすぐ底を尽く。戦地で銃砲弾製造を始めるものの原料も不足し、苦しんだ。
薩摩士族独特の気風も行動に影響している。鹿児島(薩摩)士族には、策を潔しとせず、即行を尊ぶ陽明学精神と、上司・年長者の意見は絶対という序列意識が強くある。このような要因と、農民(平民)を中心に徴兵した政府軍(四民皆兵)への低い評価などが相まって、楽観が先行。行動を確実に詰めてゆく事が乏しく、単純な強行作戦が目立った。
薩軍の幹部は幕末から近代軍学を学んだエリートなのだが、純粋で誇り高い志、政府への反発心などが過ぎて現実を見失わせ、都合のいい楽観論が支配してしまったようだ。
・・・と一般の薩軍の評価は云われてる。しかし、それだけで敗れたとは言い切れない薩軍の不可解な行動・政府軍の損害の甚大さがある。
西郷は薩軍大将でありながら、具体的な戦略方針は示さず。桐野利秋ら私学校幹部にませて、ほとんど表だった行動はしていない。また薩軍各隊は作戦中に謎の行動を取るケースも見られた。勝つことを放棄したかのようにも見える。ここには何か秘する約束があったのかも知れない
田原坂一帯では物資の乏しい中で、優れた工兵能力で政府軍を十数日間も足止めする防衛陣地を構築。当時、世界でもに類をみない激しい戦をくり拡げた。
戦線を幾度となく物量戦で突破られながらも、その都度的確に各隊を統率し、戦線を再構築する手際の良さは政府軍のそれを遙かに上回っていた。
政府軍は最新の装備・物資補給能力を持ちながら、初めて大がかりな実戦に出る士官・兵卒が多く、維新の戦いでならした士官に指揮された薩軍に敗れること幾知れず。
延岡の戦い後、西郷の命令で薩軍は解散宣言したものの、残った薩摩士族達は九州山地の最深部を常人では想像も付かない速さで駆け抜け、政府軍の追求をかわした。
わずかな武器と500にも満たない兵員にも関わらず、政府軍が占領する鹿児島に突入成功して城山一帯を占領。西郷以下主立った者は政府軍の包囲の中玉砕している。
このとき政府軍は5万もの兵を動員していたとう。
政府軍は優れた装備と兵力・体制を持ちながらも、薩軍が鹿児島・城山で崩壊するまで恐怖の存在だったのだ。
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